2011年7月16日土曜日

110715東日本現地調査報告


 3月11日に発生した東日本大地震は一瞬にして多くの方々の命を奪い、未曾有の大災害となりました。倒壊した道路や家屋の震災に覆いかぶさるかのような津波。まちは跡形もなく瓦礫の山と化し、人々の希望を削ぎ取るかのように重機だけがうごめく荒野が続いています。原子力発電所の損壊は目に見えない恐怖をまき散らし、国家の対応や方針も定まらない状況でですが、それでも、被災地の人々は復興に向けた動きを始めています。

私たちは、能登半島地震で全国の皆様から受けたご恩を返すのは、東日本大震災の復興支援に他ならないと心に誓い、被災地の現状を確認しながら現地のニーズ調査を行うことにしました。机の前や能登にいて考えていても何も始まらない、現地で多くの方とお会いし、我々ができることを見つけ、ただちに実行に移すために現地の視察調査を実施しました。そのため、この報告では震災の被害状況などの数値的な情報は割愛し、主観を交えた報告レポートといたしますので悪しからず御了承願います。

  さて、初日は仙台市に入り、東北地方の地域づくり、観光政策の事情に詳しい東北地域環境研究所の志賀秀一社長にお話しをお伺いいたしました。志賀秀一社長とは、以前に下北半島の町村長3名を能登にお連れいただいたことがご縁で今回の訪問とお話しをお聞きできる事となりました。当時は能登半島地震から1年経過した頃で、震災後の状況をお話しさせていただきましたが、今回は立場が逆転することとなりました。

  懇談は昼と夜の2部制で行いました。初めに写真誌などをもとに東北の被災概要と主観をお話しいただきました。仙台市の海岸線は36メートルの波にのまれ壊滅状態、停電や食糧難は自らも大きな恐怖感に見舞われたとのことでした。また、現在は住民への心のケアが必要となっており、仙台市内でも160人の子どもたちが両親を失っていることから、子どもへの適切な対応が必要でもあると話されていました。

  また、ご自身が仙台事務所長に就任している大分県竹田市の被災地支援物資の提供方法についてもお話しいただき、受け手のことを考えた市長の采配により、米は無洗米、衣類はサイズ別にするなどして被災地での仕分け作業に配慮されていたことに自身も感心したとのことでした。これからは自治体のリーダーの資質・感性で都市経営に大きな差が生じてくるだろうとのことでした。東北においても復興の速度や内容に首長の差が表れるとも話され、全くの同感でした

  第2部では、大分県竹田市から仙台市へ派遣されている職員2名と仙台市の職員2名を迎え、地域間交流の話題、観光政策の情報交換などを行いました。九州・能登・宮城と、日本を横断するように集まった方々との地域づくり談義に花が咲き、震災が結びつけてくれたと言っても過言ではない出会いに感謝しつつ、さらに被災地への支援に力を注ぐことを約して夜が更けました。

二日目は5時半にレンタカーで仙台市を出発、高速道路を経て陸前高田市に入りました。陸の孤島とも表現されることもあり、山々を超えて海岸線に開けたまちが陸前高田市です。山あいのインフラや家並みからは、さほど震災の傷跡が感じられませんでしたが、平地に差しかかると情景が一変しました。赤く枯れた川沿いの木々、川で仰向けになっている車、骨組みだけの家々、赤色灯を降る警察、ほこりっぽく渋滞した道路、おおよそ想定していたこととは言え、その悲惨な情景を目の当たりにして絶句しました。

さらに、車を進めると海岸縁の平地を見下ろす道路に差しかかり、そこから見える景色は我が目を疑うほどで、瓦礫と廃屋の間を道が通り、重機が行き来し、誘導員が立ちつくしてているほかは、人の気配が感じられない荒野が続いています。繁華街があったであろう市役所脇の道路沿いは、微かに区画めいた基礎が残る平地が続き、異空間に迷い込んだような感覚でした。

その後、プレハブ造りの陸前高田市役所でワタミ株式会社の執行役員秘書室長の中川直洋氏をお会いし現状をお聞かせいただきました。さらにお忙しいなか、戸羽太市長にも面談させていただき、市長からは「まちは全てなくなりましたが、休日になると様々な目的で訪れる人はいますが、お土産になるものがありません。これを機に陸前高田の特産品をつくり、多くの方々にお買い求めいただき帰っていただきたい。産業復興のためにもどうぞお力添えを」との趣旨のお話しをいただきました。私からは「能登半島地震で全国の皆様からお世話になった恩返しとして、一所懸命お手伝いします」とご返答いたしました。

また、市役所では工場も店も自宅もなくなったお菓子屋さんの木村昌之氏を紹介され、さっそく特産品づくりに向けた懇談を行いました。早くとも10月まで仮設工場の目処が立たない状況で、先ずは仮設工場を整備することとし、コンテナを改造したイベント用のミニ工房を能登から運び込むことにしました。機械類も必要に応じて調達し、運搬・設置・運営にあたっては能登ネットワークが支援することとし、木村氏の仮設工場が整備された後は、別の利用者に使っていただくこととしました。

さらに、高台に建てられたプレハブの市役所には多くの高齢者が罹災証明などの手続きに訪れており、道を登るだけで大汗をかいている姿がありました。水を一杯飲めたら落ち着いていただける、暑気をはらうことができるだろうとの思いから、能登半島からの支援備品として「ウォータークーラー」を贈呈設置し、市民の皆様に利用していただくよう市役所の職員と打ち合わせました。あわせて、陸前高田市で8月末に行われる復興イベントへの参加要請も検討している旨のお話もあり、前記した特産品を売り出す機会としてスケジュールを詰めることにしました。

 お昼を前に、 陸前高田市から気仙沼市へ入りました。気仙沼市は市街地に大型漁船が乗り上げ、水産加工場らしき建物はすべて崩壊し、地盤沈下による港の機能も失われています。


 石巻市に至るまで、どこの海岸線も大きな津波の傷跡を残しており、瓦礫の撤去や復旧が全く進んでいない地域がほとんどです。仮の瓦礫置き場に入るダンプは列をなしており、瓦礫置き場が一杯になる日もそう遠くないような状態で、現地の作業は少しづつ進んでいます。

  石巻市では工業団地から市街地、住宅地にいたるまで大きな被害を受け、飲食店街などは再開のめどが立つ様子は無く、交差点では信号が動かず警察が誘導している状況です。ここも港から市街地にかけた地盤沈下が激しく、港の荷捌場は海水に浸かり、川沿いの道路ではポンプで排水している個所も見受けられました。

  はじめはデジタルカメラ片手に記録を撮っていましたが、いつの間にかカメラは鞄にしまっていました。写真は自分のものより雑誌や写真集で見ようと思い、自分の目にだけ焼き付けることにしました。心の中で小さな葛藤を繰り返しながら、やりきれない思いと言葉にならない時間で一日が暮れました。

いまさらですが、この大惨事に対応するには大きな方向性を示す必要があると感じました。住民の思いもありますが、二度とこのような被害に合わない、人命を第一に尊重するグランドデザインを描くことが求められます。国家の権限を主張しながら、責任を感じられないまま時間が過ぎています。現場の動きに呼応するようにシームレスな組織づくりと判断基準を示さなければ、被災者はおろか、命を落とされた多くの犠牲者の魂が浮かばれません。そんな思いで二日目を終えました。ホテルには21時帰着、翌日は移動日でもあり雑魚寝する5名の参加者と懇談しながら比較的余裕のある夜を過ごしました。

最終日の移動、JR仙台駅からの乗客はさほどではありません。じつは、仙台市内に限らず宮城県、岩手県の宿泊施設は満室です。火災・地震保険の査定、建物のメンテナンス、大手企業のボランティアなど災害に関わる方々の宿泊がほとんどです。そのため、連泊などの方々が多く、また、観光産業への恩恵は少なく、まだまだ風評被害の真っただ中です。各地から東北への旅行を企画している状況ですが、途切れることなく続けてほしいと思いますし、息の長い支援が必要になります。

私たちの東日本大震災復興支援は始まったばかり。規模が大きすぎて如何したらいいかわからないと足踏みしていました。しかし、現地に飛びこむことを決めたとたん、様々な情報が寄ってきてくれるようになりました。ご縁がつながるようになりました。今回の出会いを必然ととらえ、効率や効果を考えるよりも、先ず、素直に「自分ごと」として復興の作業を進めていきたいと思います。みんなを助けることはできませんが一人が喜んでいただけることはできそうです。一人が一人を応援すればきっと東北は甦ります。

がんばろう東日本、私の微力が日本を変える!

平成23年7月16日

中浦政克

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